ガスタイクからの帰りがけに、ミュンヘン・フィルのテューバ奏者、グスタフ・ナッケと行き合った。
角ばった顔と体つきと顎全体を覆うはちみつ色の髭という、どちらかというと「いかつい」と表現できる風貌の彼が、楽器のケースとともに抱えているのはピンクと赤を取り混ぜた優しい色合いの大きな花束だ。

「マエストロ、お帰りですか?」

「ああ・・・」

頷きながらも正直に怪訝そうな視線をしていたのだろう。
つやつやとした赤ら顔をほころばせて、ナッケは彼の楽団の常任指揮者に答えた。

「今日は結婚記念日でしてね、女房は自慢のアイスバインを用意して待ってくれてるんですよ。そして食卓にこれを飾るんです」

と花束をついと持ち上げて見せる。

「マエストロも記念日には奥様に花を贈るのでしょうな。女性が花を喜ぶのは万国共通ですから」

そう言って「では」と一礼すると、恰幅の良い陽気なテューバ奏者は鼻歌交じりに歩いていく。
その背を見送って、カン・マエは彼にしては珍しく困惑とも逡巡ともつかぬ表情をにじませてしばらく佇んでから、おもむろにコートの裾を翻し、ミュンヘンの真冬の風の中、駐車場へと向かった。
 



 
郊外の家に帰ると、そこには真冬の宵に似つかわしい寒々しい闇がわだかまっていた。

日中留守にしている間も暖房をつけてあるリビングに行き、カン・マエはコートを脱いだ。
老コリーがちぎれそうなほどに尻尾を振りながら主人を出迎える。

2年ほども遡れば、暗く寒さに沈んだ自宅に帰ることこそが日常であったものなのに、そんな彼の生活にはいつしか15歳も年若の女性が存在するようになり、それによって彼にとっての「帰宅」は、琥珀色の穏やかな灯りのともる玄関を開けて、身を包む温かな空気と煮込み料理の香りの中、やわらかな笑顔とほどけるような笑い声に迎えられるものに変わっていた。

それが昨年11月の終わり、ちょうど祖国での行事に参加していた際に、妻トゥ・ルミの妊娠が分かった。
同時に貧血の傾向も見られるというので、「大丈夫だから一緒に帰る」との本人の言を頑として受け入れず、なかば命じるようにしてそのまま韓国に置いてきた。

以来、丸2ヶ月が経ち、いまやすっかり冬のただ中にミュンヘンはある。

ひとりでドイツに戻り、ミュンヘン・フィルでの活動を中心としたそれまでの生活が再開されてすぐ迎えたのはクリスマスシーズンだ。
街なかへ出ればいやでもこの一大行事に浮かれるほどの装いで、どこもかしこも大賑わいである。

 そういえば昨年の今ごろは・・・

と、人ごみの中、白い息を吐きつつ夜店をのぞいて歩いたクリスマスマーケットの夜やら、身の丈ほどのツリーにオーナメントを飾り付けていた妻の背中などをつらつらと思い返しては、ハッと我に返りもしている。

新年であっても、ウィーンやミュンヘンでのニューイヤー・コンサートに出かけると必ずあちらこちらの楽団関係者から「おや、今日は奥方は?」などと不躾にも尋ねられるばかりだ。
いつしか自分の隣には妻の姿があって当たり前だと、これほどの人に思われていたのか。と、今さらながら我が身を顧みたりもしたものだ。

そして、なにより。
この毎日の帰宅、である。

 この家は、以前もこんなにも冷えていたか―――?

と、彼はリビングとダイニングをぐるりと見回してから、やはりひとけのない2階へと向かった。愛犬がおとなしく従った。




 花のようだ。


己の妻に対して、彼は淡くそう思うことがある。

例えば、夕食を食べながらその日のできごとを話して笑い崩れるとき。
例えば、難しい表情で譜面を見据えている横顔からふいにこちらを振り返り、夫の視線に気づいて小首を傾げて微笑(わら)うとき。

たおやかそうでいてまっすぐに伸びる生命の強さを持ち、しなやかに芯を通す―――。
そんなやわらかな花に、似ている。―――と。

おめでたくもそんなことを胸中に上らせているなどと、当の本人はおろか他のなんぴとにも気取られてはならないと意地でもそれを表に出すことなどないが。

―――花―――。

そこでふと、先ほどのテューバ奏者の抱えた花束が思い浮かんだ。
彼もきっと伴侶の笑顔を思い浮かべながら花を選んだに違いない、と、そんなことを想念にのぼらせつつワインを含む。

 「マエストロも記念日には奥様に花を贈るのでしょうな?」

同時にそんな言葉も思い出されて、カン・マエは何に対してかわずかに眉をしかめた。




実のところ、彼と妻のあいだには「花を贈る」という行為に対して少しばかり、いや、かなりの苦い記憶がある。


 己の音楽が壊れる――――!


あの時の、足元に暗黒がぽっかりと口を開けたかのごとき目眩(めまい)のする衝撃は、いまだに忘れられずに身の内にあった。

思い通りに、音を、奏でられない自分。
旋律を見失いかけた自分・・・。

それは言い換えれば、この世における己の生を否定するに等しい。

目がくらみ膝から力が抜けるような恐慌のまま、あの夜、彼女のもとへと急いだ。

手元に届いたばかりの花束に、夜目にも柔らかな笑みを浮かべかける彼女の手からそれを奪うと、躊躇うことなく踏みしだいた。
少しでも形が残ったら、それはそのまま己の惑いの欠片になりそうで、執拗に踏みにじったのだ。

それから3年以上が経過した今でも、あの日の断片は、我が身を突き動かした焦慮ごと鮮明に思い起こすことができた。

ただし、それからの時と再会を経て、曲折の後に他ならぬトゥ・ルミと将来を誓ってともに暮らす今の自分が、あの夜と同じように、旋律を見失い音を紡げなくなり、絶望にも似て身をすくめているか?とここで問われたとしたら、不思議なほどにきっぱりとそれを否定することもできるのだ。

それどころか、彼女の存在と、ともに過ごす日々によって、確かに自分はそれまで気付き得なかったものを見、手に入れることができた、と、それはひとりの音楽家としても、個人カン・ゴヌとしても確固として自覚している。

大きな瞳いっぱいに涙の膜を張ってこちらを見上げるばかりの彼女に、無残に散った花を足元にして猛るような息を抑えようともせずに「私の音楽が崩れていく―――!」と、悲痛に声を荒げた、あの夜さえも。

その時の己のおののきと絶望と狂気と、彼女の衝撃と傷心と涙さえも。

それらの苦しさと痛みの全てが、今の、自分たちに至るまでの必要な道程であったのかどうか――。彼はそれを突き詰めようとはゆめ思わない。
ただ、過去のいずれをも今になって否定することだけはしまい、とだけは固く心に決めている。

「・・・・・―――」

なにげなく書斎机の上のカレンダーに目をやって、彼はあることに気付き片眉をぴくりとわずかに上下させた。

 ―――ああそうか。

もうすぐ、2月・・・。妻の、誕生日がくる。




10日後、彼の邸宅の電話が鳴る。

「あなた?」

しっとりとやわらかな妻の声が、カン・マエの耳に届く。

仕事や時差、ルミの聴力など、いくつかの制約がある彼らの間で電話はあまり用いられない手段であるが、今日は彼女の耳の調子もいいのだろう。

「・・・ああ」

電話の用件が何に対してなのかうすうす気付きつつ、彼は、必要もないのにわざわざ眉間に縦じわを刻んでみせた。

「ありがとう・・・お花」

「ああ・・・2月だからな」

素直に「バースデープレゼントだ」などとは、彼の口からは決して告げられることはない。これまでも、きっとこれからも。

けれどもマエストロの年若の妻はそれすらも愛おしむように「はい」と微笑みを含んで頷き、再度「ありがとう」と静かに添えた。そして、

「びっくりしたなぁ。まさかあなたからなんて・・・」

「驚くこともないだろう―――世の女性はおしなべて花を喜ぶそうだ」

と、彼は彼の団員の受け売りをもったいぶって披瀝してみせる。

声から伝わる夫の渋面が見えるかのように、くすくすと妻が笑うと、

「安心しろ。今回は踏みつけに行ける距離にはいない」

とマエストロはさらに自嘲するように言葉を重ねた。
2人にとって少しばかりにがい思いを持たざるを得ない過去のできごとを、この程度に口に上らせるほどには、彼と彼女は心をゆるした間柄となってすでに久しい。

「そもそもソクランでのあの花は、キム係長が選んだものだ。しかも市長就任祝いの代わりだった」

「・・・ええ」

「今回は初めからおまえのものとして、俺が選んだのだからな。誰かの代わりではなく」

「―――あなたって・・・」

はい、はい、と微笑んで応えていたトゥ・ルミの声が少しずつ笑いのほころびを広げていき、ここへきて彼女はとうとう堪えきれずに吹き出した。

「あなたって・・・どうしてそんなことを、そんなに威張って言うのかしら」

そのまま語尾が崩れる形に、彼女特有の柔らかな笑いに溶けて、彼の妻は遠く受話器の向こうでひとしきりベルベットの感触の声を響かせた。

「・・・笑い過ぎだ」と彼が声を苦くにじませてみても、

「だって・・・だって、本当におかしいんだもの」と、息を吸う合間にぽつりと言ってはまた笑い続ける。

―――笑って笑って、そして最後に、ふいにルミの声が涙の色を帯びた。

その変化は急だった。

「・・・逢いたいよぉ・・・」

今の今までころころと笑い転げていた妻の頬に、ふいに大きな涙が転がる様が、鮮明にカン・マエの脳裏に浮かぶ。
何かを言おうとして唇を湿し、しかし何も言えぬままに彼はそれを噛みしめた。

「―――――・・・」

「逢いたい・・・今すぐ逢いたい」

「・・・トゥ・ルミ・・・」

かすれたままにマエストロが呟いた妻の名は、しかし受話器すら拾うこともかなわぬほんの密かな囁きだった。
しばらくひそめた調子の啜り泣きが続いたのち、すん、と軽く鼻をすすってからルミは言う。

「すぐにチケットを取って、ミュンヘン(そっち)に戻ります」

「バカなことを言うな。体調が落ち着くのはまだ先なのだろう?」

「じゃあ会いに来て下さい」

「・・・・・・」

言われてカン・マエはふいに押し黙った。
この場合、この無言は拒否でも反発でもない、単にひとりの夫としての逡巡と当惑だけだった。

「花を踏んでもいいから、来て下さい・・・」

「―――バカだな、本当に・・・」

ようやくひと言零された「バカ」は困惑と、そして、少なからずの同調が含まれていて、それは心もとないほどの回線を通じてはるかなる祖国にいる年若の妻にも、伝わる。

広遠たる大陸の東と西とに距離を隔てて、2人はしばし無言のうちに胸に相手の面影を抱き、互いの想いを噛みしめていた―――。


 薔薇の木に薔薇の花咲く

   なにごとの不思議なけれど


(了)

 
本家ブログにて"kiss×kiss×kiss"を掲載した時に、読者の方から「ルミが3ヶ月も実家にいたということは、クリスマスも新年もルミの誕生日も離ればなれだったんですね~」とコメントを頂いて、「あ、本当だ!」と。「それは・・・ちょっと切なかったね、カン・マエ」と。(ルミは実家で賑やかに過ごしていそうだけど・笑)

そしてずーーっと以前に他の方から「ルミに花を贈るカン・マエ」というリクエストも頂いておりまして。
あの2人に「花を贈る」はトラウマなのですが、だからこそ幸せの記憶で塗り替えて欲しいし、何よりもルミってまともに花を贈られたことがないんですよね・・・。
ゴヌからの薔薇一輪は自らの意思で受け取れなかったし、カン・マエからのアレンジメントはあーんなにぐちゃぐちゃにされちゃうし。
(正直、私には痛くて辛すぎる場面でした、あれは・・・)

夫が妻に花を贈る、という他の人には当たり前のことでも、あの2人には色々と意味のあることなのですよね。

なので、私なりの「ルミに花を贈りましょう」キャンペーン(この1話だけですが)でしたv

タイトルは北原白秋の詩より拝借。