この2年半あまり、ドイツ、ミュンヘン・フィル常任指揮者として欧州を中心に目覚しい活動を続け、今や世界に名だたるマエストロのひとりとなったカン・ゴヌ氏に対し、このたび、彼の祖国では特別褒章を授与することを決定した。




 
これまでも何度か授与対象として候補に上ってきたが、その度に、相手を傷つけることを厭わないまでの彼の激烈な言動ばかりが問題視され物言いがついてきた経緯がある。

それがここへきてようやくの授章ということは、この数年余計な風評に左右されず、彼の実力そのものに世間の目が向いたことの表れなのかもしれない。

但しいずれにしても40代前半でこの受章というのは、かなり異例の早さであろう。

これは長年彼のライバルと目され、実際こうした受章・受賞歴ではマエストロ・カンにいつでも先んじてきたシカゴ交響楽団のマエストロ、チョン・ミョンファン氏でさえ、いまだにこの栄誉に浴していないことからも窺える。
 

エデン(前)


ややもすると峻烈に過ぎるきらいのあるこのマエストロ・カン、通称カン・マエに対しては、しかし15歳年若の妻を娶ってからは、人によっては「角が取れた」と言う向きもあり、さらに「奥方に牙を抜かれたらしい」と揶揄する連中も少なからずいるようだ。

しかし、前述のチョン・ミョンファンのような、以前からカン・マエを近く知る数人は、やや顔を青ざめさせるようにして言う。

「カン・ゴヌがやたら噛みつかなくなったからと言って見くびっているやつらは、あいつの本当のおそろしさを解ってない。単に表面に出さなくなっただけで、その分じっくりと身の内で自分の感情と向き合ってそれをひたすら音楽に投影するならば、今まで以上にあいつの表現は豊かになるはずだ。・・・その上、余計ないざこざがなく感性のままにオーケストラを操れるようになったら、いったいどれほどの演奏をすることか。あいつが初めて本来の力を存分に発揮する環境を手に入れた、ということなのだから」

さらに、常の彼であるならば、仮に何かの賞を受けるとしても授賞式に出ることなど滅多にないものであったが、今回は、来年ミュンヘン・フィルでソロをつとめるチェリストの公演が同時期にソウルで開催されることもあって、それへの出席も兼ね、授章式にも参列するという。  

ソウルでの滞在は実質3日半、というかなりの強行軍でありながら、マエストロ・カンは1年ほど前に結婚した編曲家の妻を伴って晩秋の祖国に帰国した。

彼が世界各地での公演の際に、ほぼもれなく、絹の髪と透き通る肌を持つ細身の妻を伴うことはすでにこの業界で話題になって久しい。

聴力に不安要素を持つこの奥方は、しかしいつでも柔らかな笑みを艶やかな唇に浮かべて伴侶に寄り添い、明るく澄んだ光を湛えるその瞳で傍らを見上げるのだ。

その様はほっそりとした立ち姿とも相まって、彼女の夫が率いるミュンヘン・フィルのメンバーをしてひそかに「オリエンタルリリー」と呼ばれてもいた。

今日の授章式の場にもそれに続く祝賀パーティーの会場にも、当然ながらカン・マエはその若妻を伴っている。

今回の受章は、マエストロのほかに2人。
やはり欧州で活躍する老彫刻家と、長年伝統音楽の第一人者として活動を続けてきた筝の奏者の女性であった。
この祝賀会の壇上では、先ほど褒章を受けたその3人が並んで立ち、それぞれの経歴を司会者が紹介している。

カン・マエは自分の業績の紹介が終わると、すらりとした長身を優雅に曲げて軽く礼をした。
いささか彼を気難しげに見せる眉の翳りと上唇の歪みをほどきもせずに、拍手を受けながら壇上から会場内へゆっくりと視線を渡らせる。

立食パーティーの準備が整っている会場内では、すでにドリンクが配られ、祝賀会場らしい和やかさのうちに人々の低く交わす声が小波(さざなみ)のように満ちていた。

中央より少し手前のテーブルの脇に、シルクのドレスをまとった妻、トゥ・ルミの立ち姿が認められた。

おそらく夫への祝意を受けているのだろう。2人ほどの初老の男性から話し掛けられ、片手にシャンパングラスを持ちつつ微笑みながら頭を下げている。

彼女の背中とウエストの細さを際立たせるかのようなマーメイドラインのドレスは、広がる裾に金糸で更紗模様を縫いこんだオフホワイトの光沢あるもので、その生地に肩の下まで流れる艶やかな髪が揺れる様はシャンデリアの黄金色の光を受けて、まるで月光をまとっているようだ。

挨拶を終えた客人が離れると、ルミがこちらに視線を流した。
そして壇上の夫と目が合うと、いつものように小首を傾げてにこりと笑った。

それへ、片頬だけを器用にかすかに上げて皮肉気な笑みを ―但しこれが彼の”笑み”だと認識できるのは、この世でごく数人だ― 浮かべて応えたカン・マエが、しかし次には妻に視線を留めたまま、縦に皺を刻む形に眉根を寄せた。


 ―――違う・・・。

いつもの彼女の笑みとはどこか違う。儚いような、生気を欠いた静かな表情だ。

光線の加減か、妻の顔がどことなく青みを帯びている。

「―――――?」

マエストロは怪訝と懸念を半々に浮かべた瞳を何度か瞬かせた。

 ・・・壇上(こちら)に当たるライトが明るすぎる所為(せい)だろうか・・・?

と、小さな泡のような違和感を覚えた瞬間。


まるでスローモーションのように、ルミの手からグラスが回転しつつ落ちていき―――

いや、落ちるのは、グラスだけではなかった。
膝から力を失うように、彼女の身体がくたりと崩れ―――

マエストロ・カンの妻は、無言のまま意識を失ってその場に崩折れていく。

「――――――っ!」

それを認めて、カン・マエの視界がありえない形にひしゃげた。
こめかみを、ガン、と殴られたかの衝撃、冷水を浴びせらるるに似た総毛立つほどの寒さとこわばり―――。


「ルミッ!!トゥ・ルミ!!」


誰かが自分の妻の名を呼んでいる。いや、叫んでいる・・・。

その叫び声が自分の口からほとばしり出たものだと気付かぬまま、カン・マエは舞台から飛び降りると、会場へ走り込み、周囲のゲストをほとんど突き飛ばすようにして、床に倒れた妻のもとへ向かう。

床に座り込み両腕に抱きかかえると、ルミの体が力を失ったままくたりとやわらかく彼の膝に乗った。
閉じられたまぶたも、笑みが消えた頬も・・・まるで、熱を失ったかのようにただただ蒼い。

カン・マエは、意識のない妻の体を抱きかかえて揺さぶった。

「ルミッ、ルミ!おい、ルミッ!」

誰か、この耳鳴りのように反響する叫び声を止めてくれ。と思いながら。




騒然とする会場からトゥ・ルミが担架で運び出され、病院に搬送される間、自分の妻と同じ程度に青ざめた顔をしたマエストロは、まるで彼女以外が眼に入らぬかのようにしてその隣に付き添っていた。

サイレンを鳴らして病院へ向かう救急車内、薄いまぶたに細い静脈を浮かび上がらせて眠る妻の脇で、己の乱れた前髪を気にしないままにカン・マエはじっと俯いている。

傍(はた)から見れば、冷静であると言えなくもない、ただひたすらに無表情を守り黙然として座する彼の、しかし実際の身の内には。


困惑。すがるような希望。祈り。それを覆い隠す恐怖。そして後悔―――。そこには、今、百もの感情が轟(ごう)と音を立てて渦巻いている。

このような強行スケジュールに付き合わせたことがいけなかったか。
そう言えば今朝ホテルを出るときに「やたらと眠いようなだるいような」と言っていたのだ。
「休んでいるか?」との彼の問いかけに「ううん、大丈夫」と平素通りの笑顔を見せて答えたので、そのまま連れてきてしまった。無理にでも、ホテルの部屋で休ませておけば良かったのだ・・・。

  いや、単なる疲れならまだ良い。
  もっと深い何かがひそみ、彼女の身を蝕んでいたら―――――


  そして、もしこのまま――――・・・。


「――――――・・・っ」

・・・その先は、しかしわずかな想像にのぼらせることすら、瞬時に彼の体温を奪い、身をすくませるのに充分なほどの威力を持った恐ろしく重い闇である。

彼は己の思考を覆い尽くす仮定を振り払うように、組んだ手に額を押し付けて俯き、ひっそりと奥歯を噛みしめて首を振った。

 人は簡単に去る。簡単にその存在は掻き消えるものだ・・・。

すでに己の人生の中で何度も繰り返して実感してきた言葉が、不意に脳裏を駆けて。
カン・マエはかたく目を瞑ってそれを追い払おうと試みる。





やはり、そうか。

「現実」という、この容赦なく過酷な荷を人々に背負わせることの得意な、得体の知れないある巨大な者の意思は、ここに至ってこの己を嘲笑うがごとく、彼女をこの手から奪うのか―――・・・

それとも自覚のないままに、己はいつしかその楽園を逐われるべき禁断の実を口にしていたのだろうか・・・。






酸素マスクをつけて微かな呼吸を繰り返しているルミの、両目がその時ふるりと震えてうっすらと開いた。

「――――トゥ・ルミ・・・?」

それを認め、症状と聴力を慮って顔を寄せそっと名を呼ぶ彼の声に、しばらく天井を見つめていたルミの茶色の瞳がゆっくりと動いて夫の顔を捉えた。

「あなた・・・」

彼が軽く頷くと、その間に状況を理解したのだろう。
酸素マスクごしのため聞き取りづらいながら、

「また・・・心配かけちゃったね・・・」

大理石ほどに白い顔で、弱々しくそれでも笑顔を浮かべてみせるルミが言うのは、1年半前のソウルでのデパート火災に伴う騒乱のことを指すのだろうと思われた。

「ごめんね―――」と、彼女の唇が声のないままに動いた。

それへ「何も言わなくていい」との意を込めて、カン・マエは唇を引き結んで、無言で首を振って応えた。




 

(後)に続きます


韓国の褒章制度云々は、もちろん当妄想の国だけの設定です。